わたしは自ら省みて、なんらやましいことはないが、それで義とされているわけではない。わたしをさばくかたは、主である。
あなたのしもべのさばきに たずさわらないでください。 生ける者はひとりもみ前に義とされないからです。
主よ、あなたがもし、もろもろの不義に 目をとめられるならば、 主よ、だれが立つことができましょうか。
さて、わたしたちがこの世で、ことにあなたがたに対し、人間の知恵によってではなく神の恵みによって、神の神聖と真実とによって行動してきたことは、実にわたしたちの誇であって、良心のあかしするところである。
人の道は自分の目には正しく見える、 しかし主は人の心をはかられる。
だれが自分のあやまちを知ることができましようか。 どうか、わたしを隠れたとがから解き放ってください。
なぜなら、わたしたちは皆、キリストのさばきの座の前にあらわれ、善であれ悪であれ、自分の行ったことに応じて、それぞれ報いを受けねばならないからである。
だから、主がこられるまでは、何事についても、先走りをしてさばいてはいけない。主は暗い中に隠れていることを明るみに出し、心の中で企てられていることを、あらわにされるであろう。その時には、神からそれぞれほまれを受けるであろう。
なぜなら、律法を聞く者が、神の前に義なるものではなく、律法を行う者が、義とされるからである。
「見よ、わたしはまことに卑しい者です、 なんとあなたに答えましょうか。 ただ手を口に当てるのみです。
わたしは堅くわが義を保って捨てない。 わたしは今まで一日も心に責められた事がない。
それで人はどうして神の前に正しくありえようか。 女から生れた者がどうして清くありえようか。
パウロは議会を見つめて言った、「兄弟たちよ、わたしは今日まで、神の前に、ひたすら明らかな良心にしたがって行動してきた」。
イエスは三度目に言われた、「ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか」。ペテロは「わたしを愛するか」とイエスが三度も言われたので、心をいためてイエスに言った、「主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛していることは、おわかりになっています」。イエスは彼に言われた、「わたしの羊を養いなさい。
人はいかなる者か、どうしてこれは清くありえよう。 女から生れた者は、どうして正しくありえよう。
たといわたしは正しくても、 わたしの口はわたしを罪ある者とする。 たといわたしは罪がなくても、 彼はわたしを曲った者とする。
もしアブラハムが、その行いによって義とされたのであれば、彼は誇ることができよう。しかし、神のみまえでは、できない。
天は神の義をあらわす、 神はみずから、さばきぬしだからである。〔セラ
わたしの足は平らかな所に立っています。 わたしは会衆のなかで主をたたえましょう。
治める者の歓心を得ようとする人は多い、 しかし人の事を定めるのは主による。
わたしはあなたがたにさばかれたり、人間の裁判にかけられたりしても、なんら意に介しない。いや、わたしは自分をさばくこともしない。